通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
2 函館工業の近代化への途
4 造船業と鉄工業

造船業と鉄工業に及ぽした経済的諸要因

明治後期の造船業と鉄工場

造船ブーム期の造船所

造船ブーム期の鉄工場

造船業と鉄工業に及ぽした経済的諸要因   P125−P127


図1−2 造船所・鉄工場数の変化
『函館区(市)統計書』『函館商工会議所年報』『函館器械関連工業の歩み』(昭和14年刊)より作成
 函館の明治後期の人口は32年に8万9795人、44年に8万9548人と、40年の大火後も大きな変動はない。これはこの時期の経済の低迷を示すものである。全国的な不況の他に、函館、札幌間に鉄道が開通したことや、経済機構の一部が小樽へ移ったことも影響しているのであろう。海運界の不況をうけて造船業は振わなかった。図1−2のように造船所数は明治39年頃より減少している。しかし、明治末から昭和初期には、函館港の在籍船(汽船、帆船)は全道の半分を占めており、船舶や機関の修繕工事には恵まれていた。北海道の船舶検査を扱う逓信局海事部は函館におかれていた。
 明治から大正期にかけて、硫黄鉱業が輸出産業として脚光を浴びた。本道は本邦有数の硫黄生産地で18鉱山あったが、尻岸内の古武井鉱山は有名である。鉱石は山元で精練され塊状硫黄とするが、これには焼取法が用いられた。焼取法は鋳物製の精練釜(0.6トン/個、以下硫黄釜という)を10〜14枚かまどの上に並べて1基としたが小さい鉱山でも2〜3基が普通であった。釜の寿命は硫化鉄の付着のため、1年位であったからその需要量は莫大であった。古武井鉱山は明治34年に山県勇三郎が本格的に操業を始め、44年からは三井鉱山の経営となったが、硫黄産出量では本道の60パーセントを占めていた。硫黄釜の需要に応じて、函館の鋳鉄工場は多忙であった。
 第1次大戦ではドイツの潜水艦に撃沈される船舶が多く、この為に船舶の需要は急増した。これを受けてわが国の造船業界は未曽有の活況を呈し、函館でも大正3年から8年にかけて図1−2に示すように、造船所の修繕、新造工事が急増した。また、舶用汽缶汽機、船用金物の製造で鉄工場は多忙を極め、図1−2のように工場数の増加をもたらした。

硫黄釜
直径1180mm
高さ 665mm
厚さ 30mm

硫黄焼取かまど構造図
(『早稲田大学鉱山学研究報告vol66』)
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